古布の歳時記
古布の歳時記解説 1月
1月は吉祥文様です。左側の布は若松(小松)と梅の花の間に羽子板が描かれています。若松には根が付いています。(図1)京都では正月の松飾りに根付きの「根引松」を使うことが多いそうです。歴史は古く、「陰暦正月の初子(ね)の日に、野に出て、小松を引き抜き、若菜をつんで遊び、家内の千代万代を祝って宴遊すること」は「小松引」と呼ばれ、「奈良後期から始まり平安時代には京都をはじめ各地でおこなわれた」とのことです。(岡登貞治『文様の事典』)源氏物語の第23帖「初音」の第1章第2段にも「小松引」の描写が出てきます。
若松の文様には枝の先端に三つの点をつけて新芽をあらわすことが多いようです。図1に示すように、この布の根付きの松も、枝の先端の3つは丸く太くなっており新芽をあらわしていると思われます。
羽子板も、若松と同様に正月にふさわしい文様です。羽子板遊びは今でも正月の遊びですが、室町時代に既に正月の遊びとして文献に見られます。羽根を突く板は「羽子板(はごいた)」「胡鬼板(こぎいた)」、羽根は「羽子(はご)」「胡鬼子(こぎのこ)」と呼ばれました。伏見宮貞成(さだふさ)親王の『看聞日記(かんもんにっき』の永享4年(1432)正月五日の記事に以下があります。
こきの子勝負分方、男方勝、女中負態則張行
(羽子板の勝負を男と女に分けておこない、男方が勝った。女方は罰として男方を宴席でもてなした。)
一日おいて正月七日の記事には、
先日こきの子の還礼男共張行
(先日のこきの子勝負の返礼として男共が宴席をもうけた)
また永享6年から10年にかけては毎年のように室町殿(足利将軍)から伏見宮に、正月五日に贈りものがあります。
宮御方へ球杖三枝、玉五(色々綵色)、こき板二(蒔絵置物絵等風流)、こきの子五
球杖は当時のホッケーのような遊び毬杖(ぎっちょう)に使うスティックと思われます。玉は色鮮やかな手鞠でしょうか。こき板(羽子板)は2枚、こきの子(羽子板の羽根)5個です。かっこ内は割註ですが、羽子板には蒔絵が施されていたようです。この羽子板は実際に使うのではなく飾るもののようです。
羽根つき遊びが庶民に広がったのは江戸時代、元禄の頃と言われています。また小正月(旧暦1月15日)の火祭りである左義長(現代では門松などを燃やす)行事と結びついて、左義長の様子が描かれた左義長羽子板が作られ大名や公家の贈り物としても使われました。
羽子板が着物の文様として用いられるのは、役者絵を押し絵にするようになった江戸中期からと言われます。(岡登貞治『文様の事典』)この布に描かれた羽子板の中には、桜の花、紅葉、松などが見えます。右上の羽子板の意匠はよくわかりません。
羽子板遊びの起源については、羽根を悪鬼の矢に見立てて羽子板(こぎ板)で防ぐという説(中川喜雲『案内者』1662年)や、羽根を子供に災いをもたらす蚊を退治する蜻蛉に見立てて厄除けのためという説(一条兼良『世諺問答』1544年頃)などがあります。いずれも附会とも考えられますが、もともと五節句は中国の陰陽五行説から邪気を払うための行事でしたので、正月におこなう羽子板遊びも邪気払いと関係ないとは言えないでしょう。
1月の中央の布は、幕末から明治はじめ頃と思われる中形染の「松に鶴」です。松も鶴も正月の吉祥文様ですが、根付きの若松をくわえた飛ぶ鶴の文様は「松喰鶴」と呼ばれ、平安時代の後期から文化の和様化とともに現れました。文様に描かれる鶴はほとんどが頭頂の赤いタンチョウ(いわゆる丹頂鶴)です。ところが文様に描かれたタンチョウは、ほとんどすべて尾羽(おばね)が黒く描かれています。実際のタンチョウは、図2に示すように、羽を閉じている時は尾羽が黒いように見えますが、羽を広げると尾羽は真っ白で、黒いのは風切り羽であることがわかります。タンチョウは江戸時代には東京にも飛来していたようですが、当時も普通に見られる鳥ではなかったようです。
1月の右側の布は、「茄子(なす)に宝尽くし」です。「茄子」文様は「成す」に当てて、さまざまなことが成し遂げられる、何事も成就するという語呂合わせから、吉祥文様として親しまれてきました。(熊谷博人『江戸文様こよみ』)この布には茄子の他に二つの文様も描かれています。ひとつは宝尽くし文様の「分銅(ふんどう」です。図3の拡大図でわかるように、分銅文は円形の左右を弧状にえぐり取ってくびれた独特の形をしています。(岡登貞治『文様の事典』)これは江戸時代に両替屋の分銅の鋳造を一手に担った後藤四郎兵衛の「後藤分銅」の形です。(図4)この分銅は、両替屋で当時重さを量って貨幣価値を決める秤量貨幣であった銀貨の両替のために用いられました。
また茄子と分銅の文様の間にある三つ点が連なった文様ですが、熊谷博人さんの『江戸文様こよみ』の茄子の項にも同じ三つ点が茄子と一緒に見られます。あるいはやはり宝尽くしのひとつである丁子(チョウジ)文の省略形でしょうか。丁子文は香辛料であるクローブの花蕾(つぼみ)を図案化したものですが、2つの交差する丁子を図案化したものにはやはり三つ点が並んで見られます。
古布の歳時記解説 2月
2月は梅花があしらわれた文様3種です。梅花は、立春の頃に百花に魁(さきが)けて咲きます。佐藤成裕『七十二候新撰』の立春の候は、「梅花魁矣」です。左側の布には後ろに長く藻を引いた「簔亀」がいたり、中央には1月の解説にも出た根付きの若松(根引松)もあったり、吉祥文様でもあります。『文様の事典』(岡登貞治編)によれば、「染織には古い時代に梅文様がほとんどなく、江戸時代から盛んに用いられたらしい」とのこと。
左側の江戸時代のものと思われる緑色縮緬地中形染には、流水文様の中を泳ぐ簔亀と梅花が染め出されています。この切り取られた部分には2つの梅花がありますが、左側は横から見た「横見梅」で、右側は裏から見た「裏梅」です。梅花はさまざまな形にデザインされました。簔亀と梅花の組み合わせも江戸時代の古布によく見られます。図1は、霰(あられ)で描かれた流水の曲線の中に梅花が浮かんでいます。その間を立派な簔亀が泳いでいます。とてもしゃれたデザインだと思います。図2は福井県小浜からの藍染めの古布ですが、節竹と梅花が並んでおり梅花の五弁の中に簔亀がいる大変面白い意匠です。
中央の「根引松に梅花」ですが、梅花と根引松以外にも何やら意匠が散らばっています。図3にそれぞれの意匠の拡大図を示します。ずいぶんいろいろな形が見られますが、上段の2つと中段の左側の3つに分かれた形は梅の蕾(つぼみ)のように見えます。下段の左側は開いた梅の花を横から見た「横見梅」のようにも見えます。図1の「あられ梅花流水に簔亀」の白抜きの梅花を見ると、必ず花の横に1個または2個の同じような形の梅の蕾が見られます。図2の「節竹に簔亀梅花」を見返してみると小さな梅花の横には1個または2個の白丸が描かれています。様々な梅花文を見ると開いた花と蕾を両方描いているものが多く見られます。図2,3,4に見られる花の横や間にある意匠も梅花の蕾をあらわすものでしょうか。
中央の「根引松に梅花」には、黒く染められた梅花には普通の五弁の梅花と一筆書きで滑らかな曲線でかたどられた梅花の2種類が見えます。一筆書きのほうは八重咲きのように輪郭が重ねられています。この独特な滑らかな輪郭の梅花は、家紋では「利休梅(りきゅううめ)」と呼ばれているようです。但し茶道の世界の利休梅緞子と呼ばれる名物裂は、五弁が分割された梅鉢文であり、この梅花とは形がまったく異なります。ではなぜこの滑らかな輪郭の梅花が「利休梅」と呼ばれるようになったかは調べてもわかりませんでした。
右側の「亀甲文梅花」はかなり古そうな藍染め木綿ですが、黒っぽい大きな花弁に亀甲文のある花と、小さめの赤っぽい花弁の梅花があり、梅の枝と葉が点描で表現されています。花のまわりは霰(あられ)模様で花弁を浮き立たせています。こうした表現技法は古布によく見られます。4月に紹介するツバメの古布にも見えます。
古布の歳時記解説 3月
3月は蝶の文様です。古布に蝶の文様は多くみられますが、時代によって蝶のイメージも異なるようです。武士は揚羽蝶文様を好み、家紋にも揚羽蝶が多く見られます。これは青虫が蛹(さなぎ)から羽化して蝶に生まれ変わることを「不死不滅」の象徴としてとらえたためと考えられています。(熊谷博人『江戸文様こよみ』)図1の左側は江戸期の裃に付けられた揚羽蝶、中央は女物の五つ紋に芥子(けし)縫いで縫い出された揚羽蝶です。家紋はデザインを統一する必要があるので、家紋の見本帳である紋鑑(もんかがみ)が作られました。図1の右側は昭和11年に京都染物同業組合が編集した『平安紋鑑』に収録されている揚羽蝶の文様です。左の2枚の古布の図案とほぼ同一であることがわかります。
手元の古布で蝶の意匠が用いられているものを並べてみました。(図2)当然のことながら花や植物との組み合わせが多いですが、意外な組み合わせもあります。蝶文7は団扇と蝶の組み合わせです。涼しさを表現して浴衣などに使われたのでしょうか。蝶文4はススキと蝶、蝶文6はハギと蝶の組み合わせで、同様に夏の終わり、秋の到来する季節を表現しているのかもしれません。蝶文11の右下の白地に描かれているのが揚羽蝶で、その左上が牡丹の花です。牡丹と蝶の組み合わせも多いようで、蝶文1の下の花丸も牡丹と思われます。蝶文2と9は枝垂れ柳、蝶文3は梅、蝶文5は桜でたくさんの曲線は、蝶の飛ぶさまを思わせます。蝶文10は、上下に流れる曲線、立涌(たちわく)模様の間に異なる意匠が詰め込まれています。中央左寄りに蝶があり、左に菊、撫子、紅葉、唐草、右に桐や紗綾形などが見えます。蝶文12の蝶の羽には麻の葉文様が描かれています。カレンダー3月右側の紅花板締の蝶もそうですが、蝶の羽や貝殻、花びらの中に文様を描くのは古布意匠の定番です。
蝶は羽の美しさから好きな人もたくさんいますが、嫌いな人も多いと思います。蛹から羽化する様子や、方向をいきなり変えて舞い飛ぶ姿など神秘的にも感じられます。江戸の古布に描かれた蝶を見ると、何となく蛾のように見えてしまうのは何故でしょうか?明治時代に西洋の分類学が入ってくる以前は、蝶と蛾をどの程度区別していたのでしょうか?なかなか江戸時代の人の心持ちで古布の蝶を見るのはむずかしそうです。
古布の歳時記解説 4月
4月はツバメの文様ですが、文様というよりツバメそのものに見えます。左と中央は同じ布で、図1に元布を示します。江戸期と思われる片面糊置きの型染の薄い絹地です。4種のツバメの意匠が描かれ、そのうち2種はツバメの体が黒く染められ、輪郭をあられ模様が囲んでいます。意匠を囲むあられ模様は、3月の解説に示した団扇や牡丹にも見え、江戸期の古布によく見られます。
ツバメの特徴は、その飛翔能力とひと目でわかる分岐した長い尾です。図1の4種の図案にもその姿がよく表現されています。あまりにも自明なためか、鳥類図鑑には尾の形状の説明が欠落しているものも見られますが、山階芳麿の『日本の鳥類と其生態 第二巻』(昭和16年、岩波書店)のツバメの項には以下のように正確に記されています。
「尾は著しき燕尾にして最外側対は中央対の2倍よりも10mm内外長きを常とし、且つ内弁は基部の3分の1を残して著しく細くなっている。」
*内弁:鳥類の羽のカーブした内側
つまり尾羽の左右両端はとても細長くなっているのが特徴です。こうした尾羽の長さや色の鮮やかさは、ツバメのメスがオスを選ぶときの基準となっているという研究報告があるそうです。
図2は江戸時代の鬼ごっこ「子をとろ子とろ」遊びをツバメの親子に見立てた歌川廣重の団扇絵です。左側に一羽いるのが鬼、右側の一番前で羽を広げているのが親ツバメ、その後ろに羽を前のツバメに乗せて連なっているのが子ツバメたちです。鬼が一番後ろの子ツバメを捕まえたら鬼の勝ち、親ツバメは両羽(人間なら両手)を広げて鬼を防ぎ、子ツバメたちはくねくねと逃げまどいます。
ツバメの尾羽がまるで人間の足のように見えてきます。これも独特なツバメの尾羽からの連想でしょうか。
古布の歳時記解説 5月
5月は柳にかかわる文様です。左の「柳に蝶とトンボ」に見えるぼかしのはいった横縞は、引き染めによるものです。引き染めは、張った生地へ刷毛(はけ)を用いて染料を塗って染める方法です。四色の引き染め地に、型染で柳や蝶、トンボ、三つ葉の意匠が染め出されています。下の<布接写画像>には引き染めの青い部分の織組織を示します。柳の葉(芽)・三つ葉・蝶の糊置き部分の白さが印象的なとても美しい古布です。図1に2021年の古布あそびカレンダーの6月に載せた同じ布のトンボがいる部分の意匠を、図2に似た意匠の布を示します。図2の布は引き染め地ではありませんが、蝶の形はとてもよく似ています。
中央は垂直に垂れる柳の枝に、たくさんの蝶が群れています。江戸期の古布と思われますが蝶の羽の中の模様を変化させています。
右は風になびく柳の枝の中に、蹴鞠の鞠が散らばっています。鞠の意匠は3種類見えます。「柳に蹴鞠」の組み合わせは古布に多く見られます。蹴鞠(けまり)は古代から宮中の遊びとして始まり、中世には武士にも愛好され、近世になると庶民にも広がりました。一方、鎌倉時代から公家の中で蹴鞠を家職とする蹴鞠道家が立てられ、蹴鞠の施設、用具、装束、技法、作法などが定められました。
蹴鞠の鞠は、「丸く加工した鹿の革2枚を馬の革で綴じ合わせて作られていたため,完全な球体ではなく中心がくびれたような形」になっています。重さは150g前後、直径20cm程度とのことです。蹴鞠をおこなうフィールドの「四隅には四季を表す樹木(松・桜・柳・楓)を植える定め」になっていたそうです。四隅の樹木は「懸(かかり)の木」と呼ばれ、蹴鞠の動作の邪魔にならないように、また樹木の風情を失わないように剪定(透かし)されました。柳と蹴鞠の組み合わせは、懸の木の柳から生まれたのでしょうか。
図3に明治前期の「柳に蹴鞠」の古布を示します。ずいぶん写実的な意匠になっていることがわかります。
最後に図4は新緑の柳の写真です。蹴鞠では柳は夏をあらわしていますが、新緑の柳は一際目を引きます。
古布の歳時記解説 6月
6月は流水にかかわる文様です。中央の「観世水(かんぜみず)」は横長の渦巻き文が段に重なる文です。観世水という名は、能楽の宗家である観世家に由来します。二十四世観世元滋(もとしげ)が大正12年に紹介した文章には次のようにあります。(『大観世』大正12年5月号)
京都の大宮通り今出川上った処を、今でも観世町と称して居るが、其処に観世の屋敷があった。
其土地は足利将軍義満に流祖(注:観阿弥)が拝領したもので、当流九代黒雪まで京都の其拝領地に住んで居たが、黒雪の代に江戸に移ってからは下屋敷と云う様な形になったらしい。そして明治維新まで矢張り当家の有であったが、維新後になってから其土地は政府に返上したのである。
(中略)
其旧跡には当流の先祖代々が祀った稲荷様と弁天様の祠がある。稲荷様の方は今日まで昔の形を存して居るが、弁天様は中絶して跡かたもない。
其外此旧跡には、観世水の起源を為した古い井戸がある。其井戸も今日尚残って居る。此井戸は非常に深い井戸で、昔は其水が真中で渦を巻いて居たと云ふので有名になったのである。其渦の巻いてのを(原文ママ)図案化したのが、所謂観世水であって、其れを水巻きとも云うのである。
観世元滋氏がこの土地を買い戻して大正12年3月に観世社を建立したのが、現在の西陣中央小学校敷地内にある観世稲荷社とのことです。
観世水のデザインは能楽の扇面や謡本の表紙に使われていますが、江戸時代になると歌舞伎にも多く使われています。図1は東洲斎写楽の描く歌舞伎役者、三代目澤村宗十郎(1753~1801)です。手に持っている扇面に観世水文が見られますが、これは澤村家の文でもあったようです。
続く四代目澤村宗十郎(澤村源之助)が、芝居の小間物屋役で観世水文の着物を着てとても評判になったようです。歌川豊国描く「小間物や六三郎 澤村源之助」が早稲田大学演劇博物館にあります。1808年8月10日江戸市村座にて上演の「是筺残高麗屋縞(これがかたみこうらいやじま)」での衣装で、観世水文の赤い襦袢を片側だけ見せた粋な姿です。是非、下記サイトにてご覧下さい。
https://archive.waseda.jp/archive/index.html
左側の古布は葛布のように厚手ですが、観世水に似た流水の中に菖蒲の花が見えます。右側の古布は流水に桜の花と木賊のように見える縦の線があり、雨が降っているようにも見えます。
観世水は渦巻きであって雨滴の波紋とは異なりますが、雨の日に道端の溜水の雨滴を見ていると観世水のようにも見えてきます。
古布の歳時記解説 7月
7月は麻の葉文様です。左側も中央もどちらの古布も星形のモチーフが切り抜かれていますが、中央の上下に伸びる立涌の中に見られる連続した幾何学模様が原型です。(図1)どのように作図するか悩むところですが、北村哲郎の『日本の文様』(源流社、1988年)の麻の葉文には以下のようにあります。
「正六角形の各辺に二等辺三角形を付け加えて出来た星形の、二辺のそれぞれの交点から星形の中心点に向けて直線を引いてかたち造られた十二面体の形象を通常麻の葉あるいは麻の葉文と呼んでいます。」
左側の古布では図1の赤で示したような星形を麻の葉と見なしており、菱形を要素と捉えていることがわかります。麻の葉文は江戸時代に衣装の文様として大変流行りましたが、葛飾北斎が『北斎漫画』の中で麻の葉文の書き方を指南しています。(図2)ここでは隣接する交点3つを取り囲む正六角形(亀甲)を単位として図形を捉えています。(図1の青)ちなみに私には、等間隔の平行線を60度ずつ回転してできる正三角形の中心に正三角錐の頂点が浮き上がっているような立体模様のように見えます。(図1の黄)
麻の葉文は、元来は麻の葉とは関係のない幾何学文様から始まったようです。「鎌倉時代、室町時代に造立された仏像の衣装文様の一つとして、この文様は活躍しており、又、曼荼羅、繍仏にもこの文様の用いられている例が見られる」とのことです。(奥村萬亀子、衣装文様についての歴史的考察―麻の葉文について-、京都府立大学学術報告「人文」第二十二号)
江戸時代にはいり、歌舞伎の衣装などで麻の葉文が若い女性に大流行し、鹿の子絞りと組み合わせた麻の葉文も多く見られます。7月の中央の古布の麻の葉文にも小さな丸い文が見られ、鹿の子絞りを意識したものと思われます。
古布の歳時記解説 8月
8月は団扇と提灯と盆踊りです。左側の古布は、大きな団扇に小さな提灯が描かれた薄地の縮緬です。2021年の古布あそびカレンダーでも紹介しましたが、図1と図2に元布の全体の意匠を示します。意匠としては団扇と提灯のほかに、杵と臼、黒っぽい太めの枝や細い白い枝に細かな葉が描かれています。杵と臼は月をあらわしているのでしょうか。団扇は盆踊りにつきもので、災いを打ち払う意味もあったそうなので、月夜の盆踊りの意匠なのかもしれません。
中央の古布は厚手の縮緬ですが、霧のような横線の向こうに踊る人の黒い影絵と、店の名前を入れた提灯がたくさん見えます。図3に、同じ布から切り取られた別の図案を示します。宴会の人間模様が影絵でわかりやすく表現されています。提灯には料亭の名前らしきものがあしらわれています。
右側の古布は木綿ですが、団扇と蝶が、霰(あられ)模様とともに描かれています。意匠のまわりを霰で包む手法は江戸期の古布によく見られます。型染めのこの布は、霰模様のおかげでとても涼しげです。
古布の歳時記解説 9月
9月は菊の花にかかわる文様です。『日本の伝統文様』(並木誠士監修、東京美術、2006)によれば、菊は中国原産で、日本へは奈良時代に薬草として渡来したとのことです。中国では、旧暦9月9日の重陽の節句に、菊酒を飲んで、菊の花を観賞し、長寿を祝い延命を願う風習がありました。こうした風習が日本に伝わり、平安時代以降は日本の文化に取り入れられていったようです。
右側の古布に見られる菊花と流水の組み合わせは、菊水文と呼ばれ、中国の長寿延命の伝説、「菊水伝説」にちなむものと考えられています。中国河南省のある地方の谷川の源流には無数の菊が自生し、その菊花の滋液を含む谷川の水を飲んでいる村人は皆百歳を超える長寿であるという故事です。
2022年の旧暦9月9日の重陽は10月4日です。
古布の歳時記解説 10月
10月は松葉にかかわる文様です。松は1月の若松、根引き松の文様に見られるように、おめでたい吉祥文様です。これは、常緑の松を不老不死になぞらえる中国の文化からきているようです。一方、枯れて落ちた松葉も文様として多く使われます。こぼれ松葉や松葉散らしとも呼ばれる落ち松葉、敷き松葉です。枯れても2本の葉がつながっていることがおめでたいと思われたのか、その形が意匠として面白いので広まったのでしょうか。
10月の左側は、向きの異なる落ち松葉が均等に配列された松葉散らしです。2本の葉がどちらもまっすぐなものや、片方が折れ曲がったものが混じっていて、意匠に変化を与えています。中央は、紺色と茶色の2色の落ち松葉の中に5弁の小花があしらわれています。やはり折れた松葉が混じっています。右側は、水平方向にそろった松葉が重なっており敷き松葉のようです。敷き松葉は、自然に落ちた松葉と違い、日本庭園で苔を守るためにわざと敷いた松葉のことです。やはり小花があしらわれており意匠に変化をつけています。
松葉の文様は意匠として使いやすいためか、江戸小紋をはじめさまざまな布や着物に使われています。また食べ物の飾りとして柚子の折れ松葉もあります。いくつか別の古布に見られる松葉を紹介します。図1はシンプルな落ち松葉の文様ですが、力強く新鮮な印象です。図2は、上下に波打つ立涌文様を松葉を使って描いています。立涌の間に竹と梅の花をあしらった松竹梅の吉祥文様です。