七十二候新撰紀行
神風山人と結網学人 -白井光太郎と牧野富太郎-(第1回)
9月の初め、ようやくできあがった七十二候新撰カレンダーを持って白井光太郎(みつたろう)の墓参りに出かけた。谷中銀座にほど近い南泉寺にはいると、家内と手分けして墓を探しはじめた。導かれるように裏山に登っていくと一番奥にがっしりとした光太郎の墓を見つけた。墓石の右側には「昭和八年五月白井秀雄建之」とある。手を合わせ勝手に絵に色を付けたことを詫びた。
白井光太郎は、数え年70歳の昭和7年(1932)5月30日、自宅で朝食後に服用した「不老薬」-トリカブトの塊根を加工したものを主原料とする漢方薬「天雄散」-によって中毒死した。光太郎は60を過ぎて二人の子をもうけているが、66歳を過ぎて陽道の衰えを感じ不老法の研究を始め、67歳から「天雄散」を試し始めた。原料の調合は自分でおこなっていた。これは二千年前の中国の医学書『傷寒論』に出ている薬らしい。初七日忌法要は6月6日菩提寺である日暮里の臨済宗南泉寺にておこなわれ、その後の上野精養軒での集合写真が残っている。中央に長男の秀雄夫妻、三男の東三が座り、友人教え子など総勢33名が列席しているが牧野富太郎は写っていない。光太郎の死の約1年前、昭和6年(1931)4月、自宅を訪れた牧野富太郎と光太郎が二人で写っている写真が残っている。光太郎は庭の古木(椿だろうか?)の側に和服姿で椅子に座り、その脇に蝶ネクタイをした洋装の牧野が立っている。数えで光太郎69歳、牧野は70歳である。(注:この写真は日本植物防疫協会刊行の資料館史料、山田昌雄「日本の植物病理学の草創の時代と,白井光太郎の生涯」に掲載されている。http://jppa.or.jp/shiryokan/digital_shiryou.html)
白井光太郎は、文久3年(1863)旧暦6月2日、江戸霊岸島の越前福井藩邸に生まれた。父の幾太郎(後に久人と改名)は、幕末四賢候と呼ばれた福井藩主松平春嶽(慶永)の小姓や近習を勤め、幕末の動乱期には君側にいて福井と京都、大阪、江戸を往復した。翌年(1864)江戸藩邸のものがすべて帰藩するのに伴い福井に移住し、福井城下の毛矢町に住んだ。光太郎8歳の明治4年(1871)家を挙げて再び東京に移住した。これは春嶽が新政府の民部卿に任命されるも一年でやめてしまい、父久人は引き続き執事として仕えていたからであろう。明治5年(1872)秋には、浅草橋場町の真先稲荷近くの福井藩別邸の傍らに移っている。この頃、光太郎は隠居した春嶽から毎夕英語(Union Reader)の口授および筆授を受けたと『礫水子旅行日程』に書き残している。礫水は光太郎の号であるが、春嶽の号に礫川があるので、あるいは春嶽からもらった号なのかもしれない。光太郎は明治15年(1882)東京大学理学部に入学した。3年後輩の岡村金太郎(初七日法要に出席)によれば、皇室尊崇家であり敬神家である光太郎は「神風山人」とあだ名された。戒名にも神風の二字があった。柔道をしており「案ずるに何々」が口癖の真面目な光太郎の愛国精神は、幼い頃からの春嶽や父の影響なのだろうか。
植物学者として今では白井光太郎よりも広く名を知られている牧野富太郎は、光太郎より一年早い文久2年(1862)旧暦4月24日、土佐国高岡郡佐川村で酒造りと雑貨店を経営する裕福な家の一人息子として生まれた。植物や音楽が好きで、家の裏山に遊び実際の植物は知っていたが名を知らない。ある時、小野蘭山の『重訂本草綱目啓蒙』という本草学の植物図鑑が村に来て、初めていろいろな植物の名を知ることができた。両親を6歳までに亡くし小学校にも行かなくなってしまったが、明治17年(1884)に二度目の上京をし東京大学理科大学植物学教室を訪ね教授の矢田部良吉、助手の松村任三に会った。
白井光太郎が牧野富太郎を親しく知ったのも、大正13年(1924)10月に雑誌『中央史壇』に「人類学会創立当時における回顧」と題して光太郎自身が引用した当時の日記によれば明治17年9月3日である。光太郎は東京大学理科大学生物学科3年に進級したばかりだったが、以前白井家の貸家にいた和田義則の家に郵便を届けに行くと、「和田氏を訪ひし時一人の書生座にあり。話のついでにその人の面を見るに、大学植物室に時々来る有名なる植物家牧野富太郎氏なれば名乗り合ひて近付きとなる。」和田は牧野の親戚で土佐の人、光太郎と同じ古物好きだった。光太郎曰く、牧野「君が机辺にこの春東京に来られしより採集せしといふ植物腊葉五尺ばかりの高さに累積しあるを見る。」数えで光太郎22歳、牧野23歳である。この頃の日記を読むと友達と代々木村の土器や鏃の発掘に行くなど考古学に熱中する毎日である。その後、光太郎は植物学科に進み明治19年(1886)7月10日帝国大学(この年東京大学から改称)理科大学を卒業した。牧野は光太郎と会った後すぐに土佐に戻り、再び上京するのは明治19年5月である。
明治20年(1887)2月に『植物学雑誌』が東京植物学会の会誌として発刊された。この雑誌は理科大学植物撰科にいた光太郎の後輩である田中延次郎が発案、染谷徳五郎と牧野が賛同し3人で企画し、当時東京植物学会の会長であった植物学科教授の矢田部良吉の許可を得て東京植物学会の会誌として発刊された。創刊号に矢田部の寄稿はなく、助教授だった大久保三郎の「本会略史」の後に、牧野富太郎の「日本産ひるむしろ属」と白井光太郎の「苔蘚発生実撿記」が続く。この年、光太郎は東京農林学校の教授になった。牧野の後年の回想では、光太郎が『植物学雑誌』が続けば良いと将来を危惧していたとある。それはどんな危惧だったのだろう。
明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法発布の日、文部大臣の森有礼が暗殺された。森の欧化主義に反対する国粋主義者による暗殺であった。植物学科教授の矢田部は、森有礼とともに外交官としてアメリカに渡り留学に転じた経歴を持ち、鹿鳴館のダンスパーティーに通う欧化主義の典型であった。文部大臣である森の教育政策の下で、矢田部は明治20年10月に東京盲唖学校長を兼務、明治21年3月には東京高等女学校長を兼務し多忙であった。田中延次郎から『植物学雑誌』の発刊を持ちかけられた時、東京植物学会の会誌にしたいので原稿を譲ってくれと提案した矢田部だったが、その後も『植物学雑誌』に矢田部の寄稿は明治23年までない。森有礼の暗殺を境に、欧化主義への反動から東京高等女学校は明治23年3月廃校となった。この年、矢田部は植物学に専念することを決意し、10月発刊の『植物学雑誌』4巻44号の巻頭に、「泰西植物学者諸氏ニ告グ」と題する英文を掲載する。内容は、「我々はこれまで欧米の学者に植物標本を送り学名の同定を依頼してきた。時としてまともな回答を得られず失望することも多かった。これは日本に十分な標本や図鑑がないからだったが、今や標本や図鑑もそろったのでこれからは我々独自で学名を付けることを決めた。新名は日本では新規でも貴方では既知かもしれない。だからこそこの雑誌で新しい日本の種を公開しよう。今や私には同僚がおり新種の発表を準備している。」という一方的な通告だ。45号にはトサザクラを新種として発表し、それ以降矢田部は英文で新学名を発表し続ける。11月になると植物学教室で研究をしていた牧野に大学の利用差し止めを通告する。後年の牧野の自叙伝で有名な「矢田部良吉博士との支吾」である。まさに支吾=齟齬で、矢田部は植物学に専念する決意であり、牧野は大学を利用しながら矢田部を自分の先生とも思わず好きな学問を続けたいだけであった。牧野は学生ではなく居候を矢田部に許されていただけなのでどうしようもない。ところが翌年の明治24年3月31日矢田部は大学を非職(官吏が地位はそのままで職務を免ぜられること)になってしまう。その後も2年間『植物学雑誌』への寄稿は続くが、非職満期の3年後の明治27年3月31日免官となり大学を去り、植物学研究の道が閉ざされてしまう。非職の原因について友人の外山正一が故矢田部博士追悼式の挨拶で詳しく述べているが、牧野の回想からも、欧化主義と国粋主義の争いが関係しているようである。光太郎の『植物学雑誌』の将来についての危惧は、こうした矢田部と牧野の齟齬を予見していたのであろうか。
前述の光太郎の後輩、岡村金太郎は矢田部の植物分類学の講義について、「すべて英語でRanunculaceae ; herb or shrub, leaf....,petal....の様なDiagnosisを教えられるのだからたまったものではない。そしてIf you go to Koishikawa Garden, you will see...と言うのが一つの講義にいくつ出るかわからぬといった調子であった。」と回想している。Koishikawa Gardenとは、東京大学の小石川植物園である。こうしたハイカラな矢田部は光太郎の古風な性格とは正反対のように思われるが、光太郎が矢田部を嫌っていた様子は見られない。明治33年光太郎がドイツ留学に出発した直後に矢田部は鎌倉で遊泳中に溺死してしまう。ドイツに着いて訃報を聞いた光太郎は次の歌を詠んでいる。
あなかなし君しまさすばけふよりは 学の道をたれにとはまし
たたへこときくよしもなしけふよりは 学の道をたれにかたらん
光太郎は、学生時代に「神風山人」とあだ名されたが、牧野富太郎は自ら「結網学人」と名乗った。これは少年の頃に読んだ『漢書』の中の「臨淵羨魚不如退而結網」(淵に臨みて魚を羨むは退いて網を結ぶに如かず)という言葉に感心してのことという。指をくわえて魚を見ているよりまず行動を起こして網を結ぶことだ、牧野は網を結ぶように植物の腊葉標本の作製にいそしんだのだろう。神風山人はあだ名から始まったようだが本人もまんざらではなかったようで、光太郎のライフワークとも言うべき『日本博物学年表』(初版明治24年2月刊行)の口絵版画「尾張浅井氏医学館薬品会之図」には「神風山人縮写」の署名がある。この絵は『尾張名所図会』の「医学館薬品会」の図を光太郎が縮尺を変えて写したもので、元図と比較すると画工になることを夢見ていた光太郎の技量の高さに驚かされる。光太郎は明治41年刊行の『増補日本博物学年表』の凡例で、初版は明治18年に起稿したと書いている。これはまだ理科大学3年に在学中で、牧野を和田の家で親しく知った翌年になる。初版の凡例には、牧野から富山候前田利保の植物採集記録『信筆鳩稿(識?)』を借覧した謝辞があり、光太郎と同じく本草書などの古典籍を蒐集していた牧野と交流を深めていたことがわかる。明治41年の増補版では、口絵に12人の本草名家肖像が新しく追加され、七十二候新撰の作者である佐藤成裕も含まれている。また『本草図譜』の出版で有名な岩﨑常正の描いた24歳のシーボルトの肖像もある。後年、牧野は昭和28年(1953)刊行の『随筆 植物一日一題』の中で、このシーボルト像は牧野が東京大学近くの古本屋で購入し、明治35か36年に光太郎に進呈したものであると言っている。それに対して光太郎から謝辞や由来の説明が今まで公開されていないと不平を言っている。またこれ以外にもいろいろ気前よく光太郎に進呈したのだがどこへいったのだろうとも。
牧野は裕福な家に生まれ、自ら「鷹揚な坊チャン育ち」というように好きな学問で金使いが荒く、結局実家の財産を使い尽くし高利貸しに手を出し借金に追われることになる。そのたびに不思議と、次から次に庇護者があらわれ助けられるのは牧野の人柄によるのだろう。一方、光太郎は旧幕府親藩である福井藩士の家に生まれ、士族とはいえ明治新政府の下で恵まれた環境ではなかったように思う。昭和17年3月、光太郎が東京大学生物学科2年の時、大学の動植物の4人の教授・助教授が駿州江ノ浦(静岡県沼津市)に動植物採集旅行を企画した。2年生の学生にも声がかかり、光太郎は、「予モ其志無キニハ非ザレトモ費用ノ点ヨリ思ヒ止リ居タル」に、先生から同級生で親友の坪井正五郎を通じて費用は先生が持つから参加しないかとの打診を受ける。これに対し光太郎は、「師道ノ篤キニ感激シタレド予ノ不敏ナル斯ル恩遇ニ浴スニ堪ヘサレバ御厚意ヲ辞セント思フ」と坪井に告げると、坪井は、「君ノ心得悪ルシ、此事元ト先生情誼ノ篤キニ出ヅ、之ヲ辞スルハ先生ノ厚意ニ背クモノナリ、宜シク随行ヲ乞ヒテ其恩義ニ報ユベシ」と光太郎を叱り、結局光太郎は随行することになった。3月29日新橋停車場を出発し、4月9日東京に戻った。旅行記の最後に、「予ガ此旅行ニ参加スルヲ得タルは一ニ箕作、石川両先生ノ恩恵ニ因ル事ニテ是ハ予ノ終生忘ルヽ事能ハザル所ナリ、帰京後出発以来小田原迄ノ旅費ヲ先生ノ好意ニ委スルコトハ何分ニモ心苦シキニヨリ、坪井氏ニ依頼シ実費何程ナリシヤヲ先生ニ伺ヒシニ三円五十銭トノ御答ヲ得タレバ、右金額ハ早速之ヲ返上シ難有キ思召ヲ謝シ奉リ安堵ノ胸ヲ撫スルヲ得タリ」とある。光太郎の生真面目な性格がうかがえるエピソードである。
上記の話は、このエピソードから47年後の昭和6年9月発行の『植物研究雑誌』第7巻第8号に、「駿州江ノ浦採集旅行日記」として掲載された。この時、二人の先生の内、箕作佳吉は既に亡くなっていたが、石川千代松はまだ存命である。昭和6年の旅行日記の元になった光太郎の日記が「明治17年5月日記」として残っている。記載の文章は少し異なり、発表に際して光太郎が注意深く推敲していることがわかる。元の日記では、「旅の費出す道なければ」とお金の工面がつかなかったと直接的な表現になっている。また光太郎が先生の援助を固辞しそんな光太郎を坪井が叱る言葉はなく、「今日になって金の工面が出来たと言って参加したら両先生の意を害することになる、君が意を決するなら僕が両先生のところに参加すると言ってくる」と言ったので、最後は二人で先生のところへ行って随行を願ったとなっている。また先生のほうでも、「白井に直接話すと参加しないのは旅費の問題ではないと固辞されるかもしれないので坪井を介したのだ」と坪井に告げたとなっている。坪井正五郎は光太郎と同じ年、理科大学動物学科を卒業し人類学の先駆者となった。光太郎も考古学が大好きで、一緒に遺跡発掘をするなどとても仲が良かった。師弟関係と友情の機微が感じられる良い話である。
ところで『植物研究雑誌』は、牧野富太郎が大正5年(1916)4月に発刊した雑誌である。牧野いわく「道楽で」作った自分が自由に書きたいことが書ける自費出版(といっても知人の援助によるのだが)の機関誌で、創刊号はすべて牧野の原稿である。牧野は植物を分類した植物志Floraを作る目標を持っていたので、書籍の編集や印刷にも強いこだわりを持っており、明治19年頃に石版印刷屋で印刷術の稽古をしている。当初は他人の原稿をすべて自分で書き写して編集校正をおこなっている。前記の昭和6年の光太郎の寄稿にも、時折「牧野註」が出てくる。翌年昭和7年1月号には、「我ガ『植物研究雑誌』ノ回顧」としてこれまで何度も雑誌の発行が金銭的に行き詰まった際に援助してくれた人たちの名前を挙げて感謝の言葉を述べている。大正15年からは津村順天堂の援助を受け津村研究所発行となり、それが現在まで続いている。昭和8年5月号にて牧野は主筆を降り「本誌ノ主筆を罷ムルニ臨ミ本誌ニ対スル我ガ回想ト述懐」と題して巻頭言を述べている。そこには雑誌の体裁から原稿に用いる漢字、送り仮名・句点のふり方等細かいこだわりが詳細に書かれている。この号から、牧野が好きだった外枠二重線(子持線)に縦書きの体裁から子持線なしの横書きに変わった。光太郎がこの雑誌に寄稿したのは大正15年4月号の「きささげノ説 附 往昔弓ニ作リシあずさ」が最初であると思われる。発刊から10年が経って津村順天堂の援助により経済的に刊行が安定してきた時期である。その後は前述の江ノ浦旅行日記を含め寄稿が続く。
『植物研究雑誌』は牧野の個人機関誌でもあったが、昭和4年5月号の巻頭に「理学博士白井光太郎君ヘ」と題する寄稿がある。長くなるが冒頭を引用する。
元ノ東京帝国大学農学部ノ教授、今ノ名誉教授、理学博士白井光太郎君、世人ノ知ルアノ学問ノ型ヲ備ヘタ此白井君ヲ一朝喪フタガ最後最早ヤ再ビ此ンナ学者ヲ此世ニ求メヤウシテモトテモ得ル事ガ出来ヌト断言シテモヨイホドノ不幸ニ遭遇スル、白井君ハアノ学問方面ニ在ッテハ確カニ一ノ国宝ニ値スルノデ此意味カラ同君ニハ百歳モ二百歳モノ寿ヲ重ネテ貰ハニャナランノデアル、君ハ今日幸ニ極メテ壮健デ今年六十七歳ノ高齢デハアルケレド尚矍鑠トシテ頻々愛児ヲ挙ゲラレ大ニ若者ヲシテ後ヘニ瞠若タラシメテ居ルノハ誠ニ芽出度キ極ミデアッテ吾人ハ頗ル心強ク感ジテ居リ又其元気ノ何時マデモ続カン事ヲ切ニ願フテ居ルノデアル
旧クカラなじみデ且能ク白井君ヲ識ッテ居ル私ハ白井君ニ対シ斯学ノ為メ平素カラ幾ツカノ希望ヲ持ッテ居ル是非我ガ学界ノ為メニ白井君ニ其レヲ実行シテ貰ヒタイ、是レハ白井君デアッテコソ始メテ出来ル仕事デトテモ他ノ人デハ企及スベカラザル事ニ属スル
これに続いて、牧野は光太郎に五つの要望を挙げている。第一は「和漢古今一切の本草書類の解題の編集発刊」、第二は「本草学者の伝記の発刊」、第三は「これまでの発表論文を一冊の本にまとめて発刊」、第四は、「日本本草学・物産学・植物学の古来からの歴史の著述」、第五は「これまで蒐集した本草学・物産学・植物学等の蔵書を散逸させず後世に遺すこと」である。白井光太郎著作集を編集した木村陽二郞はこの五つの要望の実現の状況を白井光太郎伝の中で総括している。この寄稿で、牧野が学問において光太郎を高く評価していたことがよくわかる。3年後の光太郎の急死を思うとその文章は何やら予見的ですらある。ここには昭和4年5月24日に撮影された自宅での光太郎の写真も添えられている。翌昭和5年正月の光太郎と牧野の年賀状のやりとりが遺されている。
<牧野の賀状>
午の年馬にも優る突進を 心に誓ふ元日の朝
馬のごと火焔立つべき勢を 吾れも見せんと勇む元日
我が齢六九とはなりつれど など勝ちざらん馬の奔するに
<光太郎の返信>
玉詠に和す
火焔もつ牧野の駒の勢に はげまされつつ吾も進まむ
我が齢君より一つ下なれど 尾にすがりつつ進まんと思ふ
年を経しこしぬけ馬は若草を 食ひつつゆるりゆるり進まむ
吾家の跡つぎ馬の新夫妻 揃ひし朝を見るが嬉しき
光太郎の最後の歌にある新夫妻とは、長男白井秀雄夫妻のことと思われる。白井秀雄は明治31年(1898)に生まれ、東京大学工学部で造船工学を学び、大正12年(1923)三菱重工長崎造船所に入社した。終戦時は造船設計部次長であったが、1945年8月9日長崎原爆投下時、爆心地から550メートルの家にいた「かみさんも、一六歳の息子、一二歳と四歳の娘」家族全員を亡くされた。戦後、新三菱重工業役員、三菱化工機社長を経て、相談役に退いた昭和43年(1968)に息子の遺族年金を元手に三菱重工長崎造船所関係者有志による文集『原爆前後』を発刊する。これは昭和61年(1986)の60巻まで確認できる。白井秀雄は昭和62年(1987)年末に亡くなっている。この文集は本来社史に残らない従業員達の生の声を記録するものであったが、昭和58年(1983)にはその一部が朝日新聞社から『原爆前後』上下巻として刊行された。1983年8月12-19日号の朝日ジャーナルで白井秀雄は語っている。「最初は、ぼくの長崎造船所時代の部下を百人ほど集めて、こんなことを言ったんだ。だれだって間違いなく年をとるぞ。じいさんになる。そして、ものもいわず日なたぼっこばかりしていると、何をしていたじいさんかと孫にも馬鹿にされる。だから、原爆のとき、こんなふうに働いたとか、そのときこんな仕事をしていたとか、そういう記録を残しておきなさいよ。そうすると、孫にも尊敬されるし、息子や嫁にまで尊敬される。しかもだよ、一人で書いておっても信用されないが、みんなで書いて本になれば、これは本当だと思うものだ。笑いごとじゃないよ。必ず君たちもじいさんになるんだから、とね。」
『白井光太郎著作集』第Ⅰ巻に、昭和60年4月15日付の白井秀雄の「跋に代えて」という文章がある。「父のめざしていたものが、学問の方法を確立するための博物学にあったことを知るに及んで、博物学に対する私なりの意見を近年いだくに至った。その時父に対する誤解が少しずつ解けていったと記憶している。幼少より私は、子供らしい遊びやお祭とはほとんど縁がなかった。行きたくなかったのではない。行かれなかったのである。母も同様である。衣服や食事に費やすべき金銭は、ほとんど書籍代となってしまった」また「父の日常の生活態度と、それによって生みだされたこれらの業績を非常に尊いものと知ることになった。それは、あくなきまでの徹底性である。真に徹底することは、自己の最高の鍛練になると同時に、非情なるエゴイズムをも産みだすものである。徹底性とエゴイズムが同席したからこそ、このような偉大な仕事ができあがったことにはじめて気がついたしだいである。俗に言い直せば、妻子を苦しませたからこそ、偉大な学問実績をあげられたというのは、一面の真理であると思うようになった。」
こうした白井秀雄の思いを知るとき、学問のためとはいえ借金を重ねて妻子を苦しめ、次から次に援助者を求めてまわった牧野と、おそらくは借金もしなかったであろうが妻子の楽しみを奪った光太郎を思わず比べてしまう。秀雄は若い頃、光太郎に言われて本を書き写したり手伝いをした。国会図書館にある宇田川榕庵の『遠西鐸度涅烏私物品考名疏』の巻末には、白井礫水識として「大正三年三月廿日 男秀雄ニ課シテ此書ヲ筆写セシム」とある。秀雄16歳の時である。引退後、『原爆前後』の編集を亡くなるまで続け、「学問は受け継がれてこそ始めて学問となるはずだ」と語り、おそらくは原爆という体験の後世への語り継ぎを願った白井秀雄に、牧野から切望されたアノ学問に妻子を顧みず打ち込んだ光太郎の姿がだぶって見えるのはこじつけだろうか。
(文責:熊谷泰)